初夏、カモシカ歩く粟ヶ岳

令和元年5月12日(日)

5:30自宅発 6:00登山 6:45分着

朝日を浴びての登山が気持ち良く、また早起きして行く。せっかくの日曜日。今日はいとこ会があり一日潰れる。本当は気が重い。だからこそ朝の短時間で登れる事、充実感のあることが嬉しい。

 

朝日は薄靄の中にある。柔らかな優しい日差しを注いでいる。もう下山してくる人、私より年上そうでも軽い足取りで登ってゆく人。すれ違って挨拶を交わすだけだの一体感と一人の気楽さが心地いい。

 

お茶の新芽は綺麗に刈り取られ、茶畑は散髪直後の様にすっきり気持ちよさそう。

風に揺れていた春の花は成長し斜面を覆い尽くしている。これから夏に向かってますます逞しく勢いよく成長してゆくのだろう。

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シャガの群生小道を歩く。

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松林の中、見上げる程の松。まるで小鳥がとまるかの様に松ぼっくりが何十個と付いている。松越しに見る自分の住む町が違う景色に見える。

山頂で高齢の元気なおじいさんと会う。以前にもお見かけした。地元の人なのだろう。

気さくに声を掛けてくれる。こんなところが粟ヶ岳の魅力だ。

カメラを持った男性が登って来た。以前も会いカモシカの映像を見せてくれた。今日は親子カモシカの写真を見せてもらう。この山は、人にも動物にも植物にも優しい山の様だ。

 

9:40 早めに家を出て南原のお墓に行く。すでに京子ちゃん、落居と比木の母が来ている。啓子ちゃんとおばさんと一緒になる。お参り後お寺に。山門が見事だった。

こんな機会はなかなか無いが他の人達との温度差を感じる。

その後食事の場へ。全て万端、手抜かりなく仕切ってくれる事がなぜか息苦しい。

次にカラオケ。母たちの歌を初めて聞けていい機会だった。盛り上がらなくてはいけない、楽しくしなくてはいけない。なかなかついてゆけない。自由にさせてと言いたくなる。心とは反対に楽しそうにするのを見抜かれ、覚めた目で見られた気がした。そんな目が辛い。連休以降なんとか人を気にせず自分のペースを保てていたが、一気に崩れる。こうしてそつなく仕切りが出来て、物おじせずに人と接することが人に認められることなのだろう。それが得意な人はいい。でもそれが苦手な人はどんなに努力してもかないそうにない。

社会的に認められて絶対の自信があり、人の話を聞くよりまず自分の話を面白可笑しくする。それ以外の考えは変わっているとしか思えないだろう。

普通の家庭とは違う、自分も人より変わっている。人前で話すことなどない。

自分の努力など無意味に思え、人が煩わしい、人を避けたい、生きづらい気持ちが湧いてくる。自分が嫌いで、恥ずかしく、人前に出るのが怖い。

 

その時ふと思い出した。百田さんの本の事。人の為に生きるなんてまっぴら。

人に認められたい、認められてしまったらその人の価値観で生きる事になる。人の価値観で認められ、人の価値観で生きるなんて嫌だ。確かに私はマイノリティ。でも私の人生。私なりの価値観もある。人の価値観に合わせ認められて本当にそれで満足か。

 

目立って、一目置かれ、社会的にも認められる事を求めてはいない。私はいろいろな人の中で、物おじせず自分のやりたい事をやり、行きたい所に行き、言うべき事は言えて

過ごしていきたいのだ。自分の大事な時間を人の価値観で一喜一憂しているのがもったいない。本当にもったいない。そんな暇があったらやりたい事や読みたい本がいっぱいあるだろう。せっかくもらったこの体とこの時間を大事にしてゆきたい。

 

これからも付き合いで出る場所もあるはず。無理に出ることは無い。出なくてはいけないこともある。出てみて気づく事もあった。そんな時どうするかも練習しないと。押しつけを交わす方法、盛り上がらなくても気を遣わずそこにいる方法。無理に明るくしなくてもそこに存在する方法。私なりのちょうどいい加減であるはず。